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「祖母が残してくれたもの」

公開日: : 09 茂木薫プロフィール

 私は今までたくさんの人々に支えられてきました。多くの人と同じように今の私を形づくるものはすべて私をとりまく人々から成り立っています。中でもやはり家族の影響は強く、特に祖母は私の道標というべき存在でした。

 ハツおばあちゃんは父方の祖母で、産まれた時から一緒に住んでいました。
 私の父は姉二人を持つ末っ子長男で、父が中学生の時に祖父がなくなり、祖母は女手ひとつで足袋の内職をしながら三人の子供達を育てました。父三十歳母二十九歳の時に産まれた私は六十二歳の祖母にとって遅い内孫でした。そのせいもあるかもしれませんが、亡くなる瞬間まで包み込むような大きな愛で育ててくれました。産後早くに職場に復帰した母のかわりに祖母が私の世話をしていたそうです。物心ついてから幼稚園に通うまでは、内職でミシンを踏む祖母の横で本を読んだり、絵を書いていたのを憶えています。
 引っ込み思案の私は近所の子供達にはとけこめず、近くに住むはとこと遊ぶか、祖母達の茶のみに混じって一人遊びするのが定番。同じ年頃の子と遊ぶより、祖母の近くが私にとっては安心できたのです。とにかくおばあちゃん子。幼い私の世界は祖母そのものでした。

 常に祖母から離れない私でしたが、一度だけ長い間離れたことがありました。先天性の心臓病だった私は、五歳になったら入院して手術するということが決まっていて、検査入院と手術入院で二ヶ月家を離れました。
 内弁慶だった私に、両親は入院だとは告げずに病院に連れて行き、血液検査をしている間に家に帰りました。病室に帰ってくると父も母もいなくて、だまされた!と思いました。身の置き場を見つけられず、ただただ大泣きしたのを憶えています。完全看護だったので、身内であっても夜病院に泊まることはできなかったのです。家を出る時の祖母の心配そうな顔は、ひと時も側を離れたことのなかった私に対しての不安だったに違いありません。

 私の入院していた病棟は重度の心臓病の子供達が集まっていて、中には走ったりすることもできない子も居たため、友達がお見舞いにきても病室には入れないようなところでした。同じ年頃の子が多かったため、すぐに新しい友達もでき、入院生活にも慣れましたが、見舞いにきた身内が帰るときにはどうしても泣かずにはいられませんでした。面会時間の終わる夕方は病室全体が子供達の泣き声で包まれました。まだ一歳にも満たない赤ちゃんもいて、その泣き声の合唱は子を持つ親にとっては辛いものだったと思います。
 現に、毎日面会にくるのは母だけでした。毎日のことですから、泣かれることも母は慣れざるを得なかったようですが、父と祖母は私に泣かれることが辛くて、病院までは来ても面会で病室に顔を出すことはほとんどありませんでした。心配で顔を見に行っては、家に帰りたいとせがまれ、泣かれ、本人以上にしんどかったのではないかと今更ながらに思います。入院中で憶えている祖母の顔は、別れ際の悲しそうな顔、手術直前の不安そうな泣き出しそうな顔でした。

 祖母が久しぶりに病院に顔を出したのは、私の退院の日でした。
 その日私は家に帰るのが嬉しくて、朝から服に着替えてお迎えを待っていました。この行動は、退院していく全ての子供達に共通していて、見送る側としては羨ましくて仕方なく、自分の時は控えようと思ってはいたものの、やはり嬉しさは隠せず同じことをしてしまうのでした。迎えにきた両親と祖母の顔は子供心ながら明るく見え、私たち家族は久しぶりに心置きなく笑ったように思います。家に帰って思う存分跳ね回る私を見ながら、満面の笑みを浮かべる祖母の姿は今でも忘れられません。

 私はいつも祖母と一緒でしたが、無口な人だったのであまり多くのことは語りませんでした。とにかく我慢強く、不平不満は言わず、ぎりぎりまで怒らず、常に優しく微笑み見守っていてくれている、それが祖母のイメージでした。近所の人達に対しても同じで、家にはよく茶飲みに人が集まってきましたが、祖母はいつも聞き役でした。いつもいつもにこにこして人の話を聞いていました。そんな祖母ですから、たまに口にした言葉はよく憶えています。
 「勉強できることは幸せなことだ」「人の悪口は言っちゃいけない。人のことを悪く言えば、まわり回って自分に返ってくる」「人の不幸は辛い。自分が辛い方がまだ楽だ」「食べ物を粗末にしてはいけない」「生き物は邪険にしちゃいけない。みんな命あるものなのだから」
 滅多に怒らない人でしたが、人のことを悪く言ったり、物を粗末に扱うとひどく怒りました。幼い頃から奉公に出て、学校には行けず字も満足に書けない祖母が生きていく中で身に付けたものを私に注いでくれたことは、私にとってこの上なく幸せなことだったと思います。さりげなく近すぎて、その大きさに気づかなかったけれど、祖母はいつでも無償の愛を注いでくれました。私が中学で不登校になって原因がいじめだと言えなかった時も、いつも側で見守っていてくれました。口を出さずに、見守ることがどれだけ大変なことか今ならよくわかります。私はとても精神的に弱い子供で、祖母の愛情に甘えきっていました。手放しで受け止めてくれる人がいたから、思いっきり悩むことができたのだと思います。しかし、おばあちゃんがいれば大丈夫、こんな私の甘えは長くは続きませんでした。

 中学三年の冬。私立高校の受験の前日、自分の勉強不足が不安になり大騒ぎする私を心配して、祖母は夜遅くまで起きていました。次の日は法事で朝早いにも拘らず十一時過ぎまで起きて、私の様子を見ていました。祖母の心配を尻目に、試験のプレッシャーから解放されてご機嫌で家に帰った私を見て、祖母は安堵したようでした。
「とにかく無事終わってよかった。」
「うん」
 それが祖母と交わした最後の言葉でした。こたつでうたた寝する私を安心したように見つめ、法事で冷えたからと祖母は風呂に向かいました。
 数分後、うたた寝する私の耳に「おばあちゃん!おばあちゃん!」父と母の叫び声が聞こえてきました。何が起こったのか分からず、起き上がるとびしょ濡れの裸の祖母が父に抱かれて運ばれてきました。息をしていませんでした。
 さっき普通に話していたのに、悪い夢でも見ているようで、人工呼吸をする父の横で狂ったように祖母の名を呼びました。母は救急車を呼ぶと、親戚に連絡するように私にいいました。震えながら受話器をとると、無通状態でかけることが出来ませんでした。後から聞いたのですが、救急車を呼んだ後は、その回線が混乱しないよう一時的に通話を止められるということでした。隣の家に駆け込み、電話を借りましたが、どんな風に電話をかけたのか憶えていません。救急車で一緒に病院に行きましたが、救急車の中でも呼吸は戻らず、とうとうそのまま息を吹き返しませんでした。心臓発作でした。法事で体が冷えたところに熱いお湯に入ったからではないかとのことでした。亡くなったと聞いても信じられませんでした。名前を呼ぶと戻ってくるとテレビで見たことあるから名前を呼ばなければ。おばあちゃんは私が泣くといつも戻ってきてくれた、私を置いて行くわけない、私はまだおばあちゃんに何もしてあげてない、戻ってきて置いて行かないで。
 どんなにどんなに叫んでも祖母は目を開けませんでした。

 着々と葬儀の準備が進む中、私は呆然と泣き続けていました。遺体の側を離れることができなくて、棺にくっついて祖母を見ていました。九十度近く曲がっていた腰がきれいに伸びていて、小さいと思っていた祖母が意外に背が高かったことを知りました。祖母が仰向けに寝ているのを初めて見ました。自分が腰が曲がって大変な思いをしていたから、祖母はいつも「おばあちゃんのようになったら大変だから」と言って私の姿勢が悪いのを気にしていました。口には出さなかったけれど、腰の曲がった状態で生活することは辛かったに違いありません。誰かが、「死んでるなんて思えないね」と呟きました。眠っているような死に顔で、祖母の死は全く信じられませんでした。まさかこんなに早く別れの日が来るなど思ってもいなかったのです。祖母のいない世界など考えられませんでした。
 薫ちゃんの花嫁姿を見るまで生きていられればいいなと言っていたおばあちゃん。私は花嫁姿どころか、ひ孫まで見てもらおうと思ってたのに。そんなささやかな願いすら叶わず、最後の最後まで私の心配をしたまま逝ってしまった。私は最後まで心配ばかりかけて、ひとつもおばあちゃん孝行ができなかったのです。

 家で行った葬式には沢山の人達がきてくれました。私の知らない祖母の実家の親戚や奉公先の人まで。ほとんどの人が「穏やかで本当に優しい人だった」と祖母を評し、口々に思い出話をしました。昔から、寝たきりになって家族に迷惑をかけたくないと言っていた祖母にとっては、希望通りの逝き方であり、あんなに沢山の人達に送られたのは幸せなことだったかもしれません。葬式が終ると、今まで気を張って泣かなかった父が、母に向かって嗚咽をもらして泣きました。
「何もしてあげられなかった。おふくろが不平不満を言わないのに甘えきって、たまの願いも聞いてやらなかったこともあった。ひどい言葉を言ったこともある。なんでもっと優しくしてあげなかったのか。」
 初めて見る父の涙でした。母は父の背中を撫でながら言いました。
「自分の親なら誰だってそう思うよ。親は子供より先に逝くものだから、どんなに親孝行したってきっとそう思うよ」
 母の言葉を聞きながら、私は心の中でうなずきました。お父さんだけじゃない、私も母も親戚の人たちもみんなそう思ってる。生きている間は、側にいるのが当たり前とついつい思ってしまうものなんだと思いました。特に祖母はそういう安心感を与える人だったのだと思います。その分、亡くなってからの喪失感は激しく、自分にとってどれだけ大きな存在だったかを痛感させられました。

 寂しがる私を慰めてくれたのは、周囲の人々でした。祖母の茶飲み友達や近所の人達、親戚が度々顔を出し、祖母の思い出話をしてくれました。ほとんどは私に関しての祖母の話でしたが、人々の話からは私の知らなかった祖母の姿を垣間みることもありました。隣の家でお茶を飲んでいても私が帰ってくる時間が迫ってくると落ち着かなくて家に帰ること、みんなの愚痴をよく聞いてくれたこと、人の心配ばかりしていたこと、いつも無口な人も祖母の前ではよくしゃべっていたこと、本当はもっといろんなところに行きたいと思っていたこと、娘時代おさげ髪の美人と評判だったこと、働き者だったこと、厳格な祖父に父が怒られそうになるとそっと逃がしていたこと、父が祖父に似てきたと喜んでいたこと。皆懐かしそうに目に涙を浮かべながら話をしてくれました。そして決まってそんな話をするときは、人々の目の前には祖母が変わらずいるようでした。
 私はそのとき、祖母がどれだけ人々を愛し愛されていたのかを知ったのです。周囲の全てのものの中に祖母は生きていました。祖母は私の居場所をつくってくれていたのです。

 祖母がいない生活に慣れるには大分時間がかかりました。ちょうど受験期ということも手伝って、気を緩めると涙が出てしまったり精神的に不安定な状態が続きました。その度におばあちゃんが心配するからがんばらなきゃと自分に言い聞かせ、その反面なぜこんなに早く逝ってしまったのかと心の中で祖母を責めたりもしました。辛い時には祖母のことを思うことが私の癖になりました。
 もうあんなに全面的に守ってくれる人はいないという気持ちが強く、しっかりしなくてはいけないと思ったのが幸いしてか、人間関係で悩みがちな私も高校ではすんなりと環境になじむことができ大事な友達もできました。それでもやはり困ったときはおばあちゃん。大学受験や浪人時代も悩むたびにお墓に行っては泣きながら祖母に話しかけました。
 自分のことで精一杯で祖母のように人を思いやる余裕などなかったというのが正直なところです。人に認められたいとか見てほしいという欲求が強く、自分の存在感のなさや個性の薄さを勝手に決め付けて悩んでいました。

 そんな私が少しずつ変わっていくきっかけが訪れたのは一浪の末大学入学が決まった春、予備校のお疲れ旅行のときのことでした。私の通っていた予備校は毎年受験が終わると、合格者も不合格者もひっくるめて海辺の民宿に一泊旅行をするのが恒例となっていました。風呂は一つしかないので、二人一組で順番に入るようなシステムになっていて、私は同級生の女の子と組むことになりました。彼女は自分の意見を堂々と言うことができる活発な子で私は日頃から彼女をうらやましく思っていました。一緒に風呂に入っている間、普段大人数の中では話さないような話を彼女は話してくれました。自分の性格についての悩みや、これからの進路のこと。初めてのことだったので戸惑いながら気の効いた言葉をかけられないことを申し訳なく思いながらも私は彼女の話に聞き入りました。ひとしきり話し終わった後、彼女は照れくさそうに笑いながら言いました。
「こんなこと友達に話したのはじめてだよ。私あんまり友達に悩みとか話さないんだけど、薫の前だとつい話しちゃう。」
 驚きました。同時にどうしようもなく嬉しい気持ちになったのです。存在感もなく、引っ込み思案でなんの役にも立てないと思っていた自分が人の役に立てることがあるというのが嬉しくて仕方なかったのです。そのとき頭に浮かんだのは祖母の姿でした。人の話をよく聞いていた祖母。おばあちゃんもこんな気持ちだったんだろうか。当時はなにも口を挟まない祖母を見て、なんでもっと自己主張しないのだろうと思っていましたが、今はそれがとても素敵なことに感じられました。
 その後大学に入学し、一人暮らしを始めてから家族や周囲の人々の愛情と有難さを改めて感じるようになりました。祖母だけではなく、多くの人々に自分が支えられていることを実感したのです。その頃から、お墓や仏壇という場所を介さなくても祖母に話しかけることができるようになりました。いつも一緒にいてくれるような気がしました。本当の意味で祖母の死を受け入れることができ、自分の中に祖母を見つけ出会うことができたのだと思います。

 私の目標は祖母になりました。祖母のように強く優しくなりたい。不動の優しさでこの世界を懸命に生きる人々を見守っていきたい。
 生きている間には何も恩返しできませんでしたが、これから出会う人達に祖母が私にしてくれたことを返していこうと思いました。祖母は身をもって愛することの素晴らしさを教えてくれました。祖母が愛してくれたように、私も人を愛していきたい。支え合い、慈しみ合い、日常を愛し生きて行くこと。それが祖母が教えてくれたことであり、そして今ではもう確認することはできませんが、願いではないだろうかと思うのです。
 今の私の願いであるように。

 私は今幸せです。
 おばあちゃん、ありがとう。

                          亡き茂木ハツへ捧ぐ

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